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亀田郷のくらし
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戦前、新潟を訪れる多くの人が不思議に思ったことがあります。現在の亀田郷周辺には、約1万ヘクタールにも及ぶ巨大な湖があるにもかかわらず、地図には載っていなかったのです。なぜ、記載されなかったのか?
それは、当時の亀田郷農民たちにとってそこは“湖”ではなく“農地”だったからなのです。
“芦沼”と呼ばれるその“地図にない湖”では、農民は冷たい水に腰までつかりながら田植えや刈り入れの作業を行っていました。稲は半ば水草のように浮いて育ち、満足のいく収穫は得られません。
また海が荒れると海水が川を逆流し、稲を腐らせてしまう年もあり、生活は、まさに命がけでした。
そのような過酷な労働は、司馬遼太郎「街道を行く〜潟のみち」の冒頭にて「農業というものは、日本のある地方にとって死に物狂いの仕事の連続であったように思える」と、語られるほどでした。
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「写真は語る 亀田の百年」より 撮影者:渡辺誠一 -
機屋の連なった時代
そのような亀田郷の農民たちが、水と泥に強い綿織物を求めて自作したのが“亀田縞”です。その優れた機能に加え、独自の縞模様が評判となり、“亀田縞”は織物職人の手によって全国的に広がっていきました。
最盛期は明治末期〜大正。歴史年表によると、元禄九年(1696年)「この頃、木綿縞(のちの亀田縞)が生産開始」とありますので、およそ310年の歴史ということになります。
「織姫たちが集まれば若い男衆の血も騒ぐ」と、亀田甚句にも歌われるほど亀田地区は織物のまちとして発展を続け、大正の末期には600を超える織物業者が存在しました。
しかし、戦争を契機に織物業者の廃業が目立つようになり、機械化の時代が到来すると“亀田縞”も姿を消していきました。そして外国から安い生地が大量に輸入されるようになり、
残った業者も次々廃業に追い込まれ、現在ではたった2軒を残すだけとなってしまいました。
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復活にかける
“亀田縞”もすっかり姿を消し、亀田地区が織物のまちだったことさえ、知る人がほとんどいなくなってしまった現在。
平成14年(2002年)中営機業有限会社の三代目である中林は、亀田縞の復元に取りかかりました。苦しいからといって、築いてきた伝統を簡単に捨てる訳にはいかなかったのです。
亀田郷資料館に保存されていた亀田縞の実物や縞見本帳を元に「やるからには、中途半端なものは作らない」と心に決め、徹底的に細部にまでこだわりました。
そして平成17年(2005年)、復元第一弾が完成。三色のタテ糸を一定間隔で配し、さらに40本に1本の割合で紬風の糸を割り込ませる、ヨコ糸は黒1本。という難技術に挑戦し、ようやく“越後亀田縞”が息をふきかえしました。
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そして、現在
亀田縞”の復活とともに、ありがたいことに、さまざまな所から製品化の話をいただいています。
平成20年(2008年)、女優・山口智子さんがプロデュースしているブランド『山笑う』の2008年春夏号カタログ(株式会社千趣会発行)にて製品となって販売されたことをきっかけに現在もさまざまなショップにて、作務衣や風呂敷、扇子などといった製品の販売も行っており、新作が揃った時には、ギャラリー等で作品展も開催しています。 そして平成26年には、商標登録も取得しました。
どこまでいっても交わることのない直線。末永い幸せや繁栄を願う吉祥の縞。亀田縞を身につけた方にも、そんな永遠の幸せが訪れますよう、これからも、心をこめて織り続けてまいります。